では、反対に与え合う状況とはどんな状況でしょうか? その前に、与えるという行為自体にも、与えられるという行為自体にも、自由かそうでないかで人間の心の有り様は全くもって変わります。日本のように、生きている=義務しかありません!という国ではちょっとなかなか想像しづらいと思いますが、与えるのも自由、与えられるのも自由という状況をイメージできますか? おそらく、誕生日プレゼントなんかはそれに最も近い状況なのではないでしょうか。
もし、自由になんでも与えることができるとしたら、何をプレゼントするでしょうか? そう考えられるとしたら、答えはあと一歩のところまで来ています。そう、「相手が一番喜ぶもの」をあげるはずです。つまり、与える喜びは、与えられる喜びとイコールで結ばれているということです。もしそう思えない場合、貴方は経済に関して極めて難しい問題を潜在的に乃至顕在的に今抱えている可能性があります。反対に、「相手が一番喜ぶもの」と答えた人は、経済活動上あまり深い問題は抱えていません。
上記の例は幸福に関する1つの例でしかありませんが、人は誰でも幸福を感じる「能力」を産まれながらにして持っています。それが生物の進化のためか、或いは別の目的のためかはわかりませんが、何はともあれその能力は万人に備わっています。
厄介なのは、その能力を発現するプロセスや、体験する方法を教えている人は殆どいないということです。
ところが非常識にもここに幸い万一の間違いがあって、唯一、スピリチュアルの世界ではそれを教えています。
そのスピリチュアルの答えとは「自由選択の結果として目的を遂行した瞬間」です。
私たちが「自由」と言っているときは、現実ベースでの自由というよりも暗に「精神の自由」、言い換えれば「自由選択」のことを指しています。
これは、皆さんご存知のエーリッヒ・フロムやヴィクトール・E・フランクルも気づいていたことと同じです。
「人間は、精神の自由を手に入れる過程でこそ成長する」とも、表現できるかもしれません。
しかし実態としては、普通に精神の自由を手にするのには犠牲があまりに重すぎます。それこそVEフランクルはアウシュビッツ収容所で培った自由ですが、一般的に普通の人がアウシュビッツに入るような体験をしたいとは、通常思いません。
かつて自由を手にした人たちは、その代わりに近しい人の死や破産、破局などを何度も経験し、その内運が良ければ「囚われない生き方」を手にしました。
しかし朗報があります。
地球の文明が進歩すると、そこまで負荷をかけずとも認識が成長し、あらゆる理解が進む瞬間があります。これを我々のスピリチュアル的解釈では「アセンション」と呼び、アセンションはスピリチュアルやヒーリングの最大のタスクでもあります。