表題とは全く関係ないですが、最近すごくしっくりくることが増えているので
ついつい書きたくなってきました。
スピリチュアルの本質がわからずに単に怪しいからと距離を置いている方も
極まれにいらっしゃるかもしれませんが、
それは変な呪術師めいた方がイメージを壊してるだけだとして、
本当のスピリチュアルに出会ったときにどうとらえれば良いのか、ということについてです。
実は今日も岩手で2人ほどスピリチュアルコンテンツで受講を申し込んでくださっているのですが、その中でこんな話をさせていただいたので掲載させていただきます。
スピリチュアルを学ぶ目的は自然に帰る事なのだと。
いやいや、十分に自然あるよ!って思ったかもしれませんがそうではないのです。
実は、仙人や方丈記を書いた鴨長明のような生き方をしない限りは、自然ではないのです。
えーっと思ったかもしれませんが実際にそうです。
どう不自然かというと人間社会に所属しているということそのものがです。
人間はどうしても進化の過程で完全に自然界と共にいることが難しくなり、心理的距離はかなり離れています。物理的距離は関係ないんです。
故に自然でないものがたくさん生まれました。
たとえばトウモロコシなどはそのへんに撒いておけばいずれ生えてくる(岩手だとおがってくる、ですかね)わけで、当のトウモロコシは「このままトウモロコシになってよいのだろうか」などと考えたり迷ったり「自分がなぜトウモロコシなのだろうか」などと悩んだりはおそらくしません。雨が降って、お日様があたって、あったかいな~くらいでしょう。
ところが雨が降ったり、太陽の陽を浴びても人間は迷ったり悩んだりするわけです。
「このまま成長すべきだろうか」「でも大変そうだなあ」とか。
神のいたずらともいうべきこの迷うとか、悩むということが非常に厄介なのです。聖書にりんごを齧って追放されるという描写があるのも納得です。
しかしその反面、何かを乗り越えたり、成長した時に喜べるのもまた醍醐味ともいうべきでしょう。
問題はむしろ、悩んだり迷ったりすること自体にあまり意味がないということです。
それもスパイスなのだということであれば邪魔だてはしませんが、悩んでいる本人もいずれ飽きて疲れてくるわけです。悩むの面倒くさいなと。
私なりの解釈としては、それでいいのだと思います。そう、悩むのは面倒くさいんです。
だって、トウモロコシだってナスだって、自分がなんでトウモロコシで、なんでナスなのかなんて悩まなくったってちゃんとトウモロコシやナスになるわけで、結果はわかっているんですからね。
成長や乗り越える喜びは大いにプラスだと思いますが、行き過ぎた迷いや悩みは脳神経の使い過ぎというわけです。いつかショートしかねません。
そこの神経疲労を大事にするのは個人の自由で結構なんですが、人情としてはやはりどこかでそれを打開する手立てが欲しいとなるわけです。
それで、自然に戻る技法が必要になるんですね。
長くなったけど、スピリチュアルを学ぶ理由も目的も同じです。
自然に帰る方法を教えているんです。
もっと厳密にいうなれば、自然状態に還る技法を習得できるように指導しているんです。
自然状態になればなるほど悩みや迷いはやはり晴れます。
不自然だから疲れる。不自然だから悩む。
知恵を得たが故の業ともいうべきなのでしょうか。これは人間やはりどこかで断ち切らねばなりません。その方法も教えているわけです。
まああとは、その方法がなんなのか、ということについては瞑想会や体験授業で体験してみてください。そうしたらもっとわかると思います。
人間生きている時間は有限ですから、時間が大事だと思うなら最優先すべきことについて理解すべきです。
お金なら稼げばいいけど、時間を稼ぐのは殊更大変ですからね。ともすれば時間は戻ってこない・・・
だから進め、我々は悩みながらも迷いながらも、進むしかない、ということですね。それも10億年もすれば消えてなくなるんでしょうけど。
今は今しかないですから。
raphael